発足者の戯言

 

第1章 日本語クラブ発足

1996年、私が大阪府堺市の日本語ボランティア教室に参加していた時のことです。

日系ブラジル人の労働者と日本語の学習をしていると、彼が「O157(オーいちごうなな)のニュースをブラジルのテレビで見て初めて知った」と言うのです。当時、病原菌O157が堺市で猛威をふるい、この事件は世界中に報じられました。その堺市に住みながら、彼はそれを全く知らず、たまたま休暇でブラジルに帰ったときにテレビのニュースを見てびっくり仰天したということです。私はそれを聞き、彼が日本でいかに孤独な生活をしているのだろうかと想像するだけでも怖ろしく、これは深刻な問題だと思いました。日本語が分からないから日本のテレビや新聞を見ても情報は理解できないし、仕事は毎日長時間労働で、日本人と接する機会もほとんどありません。日本に居ながら、これでは社会的に生活しているとはいえません。彼にとっては、月に数回開かれる「日本語クラブ」だけが日本語と日本人に接することのできる唯一の時間なのです。

 

世間を見渡せば、日本語を文法の基礎から教えてくれる「日本語学校」がありますが、こんなことがあってから、堺市のような、時間的にも経済的にも「学校」へ通えない外国人のための、外国人と日本人が面と向き合って日常会話等を楽しく学べる「ボランティアの学習会」の存在はとても有意義だと思い、これをぜひ京都でもやってみたいと思うようになりました。

 

私はその数年前から京都で、ある異業種交流会に参加していました。世代や職業(会社員や経営者、主婦、学生)など様々な人達が、自分の関心のある話題を持ち寄って話し合う会で、名称はFF(ForeverFriends)クラブ。そこのメンバーの人たちが私の考える「日本語クラブ」の旗揚げに協力してくれました(1997年4月発足)。

 

京都市内の国際交流会館などに行くと、掲示板のコーナーに外国の人からのメッセージが書かれたメモがたくさん貼ってあります。それらの中から「日本語を話したい(話せる場がほしい)」「日本人の友達を作りたい」など要望をもつ人の連絡先を私は書き写し、呼びかけてみることにしました。

留学生や労働者、帰国者、外国人配偶者の人達が少しずつ参加してくれるようになりました。また、同じ掲示板に、こんどは日本人向けに、「日本語学習の支援者を募集」と貼り出したところ、驚いたことに、学習者よりもはるかに多い数の日本人が「京都FFにほんごクラブ」に訪れ、当初はマンツーマンどころか、一人の外国人学習者に3~5名の日本人支援者がつくという、奇妙な“グループレッスン”が展 開しました。

 

私は、外国人に言葉を教えたり交流したい日本人がこんなに多いとは思いませんでした。互いの国の文化を話し合うなどフリートークをみんなが楽しんでいる様子を見て、堺市のボランティア教室とはちょっと違った雰囲気を感じました。

そんな時、参加者の一人から「このクラブは日本語を教えるボランティア教室なのか、それとも国際交流会なのか趣旨をはっきりしてほしい」と問いつめられました。

私は少し考え、次のように返事しました。

 

↑ 目次へ


 

第2章 多文化共生、実践の場

私はその人に、「ここを、多文化共生を実践する場にしたいと考えているんです」と返事しました。

その頃私は、大阪の豊中で開催されていた「コミュニティーにおける多文化共生を考える仲間の会」という勉強会に参加していました。そこには、日本語教育関係者のほかに、様々なボランティアに取り組んでいる人達がいました。この会で私は、“異文化の人と接することによって、お互いが尊重しあい、それまでの自分にはなかった価値観に気づいて自らが向上すること”の意義を学びました。これをFFにほんごクラブでどのように実践していこうか。例えば発足当初、クラブの参加費をめぐってメンバーの人達からいくつかの意見が出ました

 

    1.    日本語を教えるのだから授業料として学習者(外国人)から徴収する。

    2.    外国人を助けるのだから、ボランティアとして日本人だけで必要な運営費を賄う。

    3.    外国人と交流したい日本人が集まっているようだから日本人が支払うべき。

 

・・・などです。

それぞれ筋の通った考え方だとは思いましたが、(1)は、日本人が教師、外国人が生徒という上下関係を形成してしまいます。FFクラブは共に学ぶ場であって、一方的に言葉を教えるだけの“教室”にしたくないというのが私の当初からの考えでした。外国の人と面と向かって話し合うことで私はその人の生活習慣や考え方を知り、また自分が普段何げなくしゃべっている日本語の成り立ちやそれまで知らなかった自分の国の歴史や文化を学ぶ機会を得ることができたからです。

 

(2)は一見、奉仕の精神に溢れていますが、外国人を弱者だと決めつけています。FFクラブは、日本語や日本の文化・習慣を学びたいというニーズをもった外国人の学習を手伝いながら、互いに意見を言い合える人間関係を築くことが活動の目標です。トラブルや災難に遭って苦しんでいる人を救済するボランティア活動とは少し次元が異なります。このクラブの部屋の中では誰が××国人だとラベルを貼って人を区別するのではなく、みんなが同じ立場で運営にかかわる友達の集まりにしたい。友人が苦しい目に遭ったら、“ボランティア”の意識をもつまでもなく、手を差しのべるのが人間の感情であり行為ではないでしょうか。

(3)は逆に外国人をお客さん扱いしています。「異国の文化を紹介してくれる教養や才能のある外国人には金を払ってでも来てもらおう」と提案する人もいました。イベントとしては面白い企画です。そういえばその年の秋、京都を代表する寺院の主催で大規模な国際交流会がありました。

FFにほんごクラブも仲良しのメンバーたち十数名が参加したのですが、日本人だけがスタッフとして働かされ、景品や弁当は外国人にだけしか用意されなかったという「差別」を体験し、がっかりしたとのことでした。国宝の公開や各国のステージショウなど豪華なイベントだったようですが、日本の宗教の法要を無理やりさせられたり、弁当に豚肉が入っていて、メンバーの中のイスラム教徒は食べるのに苦労したり・・・。私は京都に共生という概念が根付くにはまだまだ年月がかかるのではないかと思いました。異文化の人を、助けてやる対象あるいはゲストとしてもてなす存在としてのみ捉え、同じ地域に住んでいても結局、ヨソ者としか見ていないようです。

 

FFにほんごクラブには「京都府内の他のボランティア教室では日本語教師の資格や経験がないと入会できない」と言って参加してくる日本人も少なくありません。どんな人も新たな友人として歓迎する姿勢を私達FFクラブのメンバーはもち続けたいと思っています。

 

↑ 目次へ


 

第3章 本当の国際交流とは

FFにほんごクラブには、これまで多くの人々が訪れています。学習者のニーズは多様です。日本人と話す機会を求めてくる人、自分の書いた文章を直してほしい人、新聞や本を読んでほしい人、日本語能力検定試験合格を目 指している人、スピーチや面接の受け方の模範を示してほしい人、近所の人とのつき合い方を教えてほしい人、日本(京都)の歴史や文化を知りたい人、政治や 経済のことを議論したい人、また、自分と同じ国の人に会いたい人、等々。そして、このクラブで親しい友達ができたことで、その友人たちに会うことだけが目的で時々「勉強の邪魔をしに」立ち寄る人もいます。

 

一方、学習支援者はどんな人が来ているのでしょうか。私は全ての人に直接動機を尋ねたわけではありませんが、外国の文化や語学に興味をもち外国人と交流したい人、日本語教師を目指す過程で教える練習をしてみたい人などが多いようです。英語を学べると勘違いしてやってきた人もいました。このように、思惑の異なる人たちですが、最初はなるべく要望や相性が合うようにマンツーマンあるいはグループを組み、学習者一人ひとりのニーズにそって約2時間の学習が進行します。教材は学習者自らが持参したものや予めクラブで用意してあるものを使用するほか、その人のためだけに手作りの教材を準備する支援者もいます。

 

その日の学習が一通り終了すると、最後に10分程度、全員でレクリエーションゲームや自己紹介を行ないます。「ゲーム」は、支援者が日本語や日本文化に関連したものを取り上げたり、また学習者が自国の地理や歴史をクイズ形式で紹介し質疑・応答で盛り上がったりすることもあります。要するに、みんなが一体になって和め、その日に一人でも多くの人と言葉を交わす時間を設けるのが狙いです。

初めて参加した人を皆の前で紹介してあげたりすることで、交流ムードが高まり、学習会以外の日に、料理会やスポーツ、バーベキュー、キャンプ、関西の名所旧跡散策、フリーマーケットなど国際交流イベントへの参加など、活発に「課外活動」が繰り広げられました。

 

しかし、いいムードが続くかと思えば、学習者が突然来なくなることもあります。日本語教育の知識が豊富な支援者でも、学習者のニーズをよく聞かないまま、一方的に学習を進めていたと反省することが往々にしてあります。

それは無意識のうちに起こります。外国語を習得することが困難なことだと知っているくせに、自分が教える側に立った途端「郷に入りては郷に従え」と言わんばかりにマイペースで指導する人も見かけます。また、学習者自身が自分のニーズが何なのか分からないということもあります。学習者と支援者とが充分コミュニケーションをとらないと、最適なニーズと学習方法を見つけ出すことはできません。

 

私は、世間一般でよく言われる“国際交流”がとても薄っぺらい言葉に思えることがあります。以前、クラブからどんどん学習者が減っていったとき、一人の留学生がこう話してくれました。

「いろんな国際交流会へ行ったけど、そこで接した日本人の多くは、僕の国のことばかり尋ねて、僕自身のことをあまり聞こうとしない。自分の意見もあまり言わないので何を考えているの分からない。本当の(国際)交流って、相手の気持ちになったうえで、自分を表現することだと思う」と。

日本人を「外国人」として見ている人の観察力はやはり鋭いなと思いました。語学が上達するとか、各国の文化を知ること、つまり「知識」は二の次だというのです。そもそも人と人が交流するのに、わざわざ「国際」と区切らなくてもよさそうなものです。

 

↑ 目次へ

 

第4章 ”教える”は禁句?

そうした経験などから、FFにほんごクラブでは、「教える」とか「教室」、「教材」、また「先生」「生徒」という表現や発想をできるだけしないよう心掛けるようになりました。

言葉狩りをするつもりはありませんが、「多文化共生」を目指すにあたって、「教育」とか「普通」という言葉は禁句といえます。いまや日本語ボランティア活動に携わる人々は実に大勢いますが、なかには、料理教室とかお花のお稽古と同じノリで活動している人らが少なくないように見えます。私たちは、“古めかしい”学校用語に支配されすぎているのではないでしょうか。日本語ボランティアによる学習支援は、「教育」とは似て非なるもの。我々は、全く新しいことをやっているという誇りが欠けているように思います。

 

私は以前、大阪で日本語教師養成講座を二年ほど受講したことがあります。日本語教育を研究する専門家等による講義を数多く受けましたが、いまとなっては内容は殆ど忘れてしまいました。けれども、一人の先生が余談で話した一言だけは印象に残っています。「日本語教師に一番大事な資質は、人柄である。それさえ備えたら、なんとかなる」。

 

それから、私はクラブ以外の場で、こんな人に会ったことがあります。それは、「日本語でコミュニケーションが出来ないために不自由な生活を強いられているにもかかわらず、日本語を学びたいという意思のない人」でした。そのとき、自分のやっている活動が「日本語クラブに通えるゆとりや意欲や体力のある人だけしか対象にしていない」ことを思い知らされました。そして、日本語を教える行為は私たちの活動のごく一部にしかすぎないことを悟りました。

 

「多文化共生」とは、いつ誰が言い出したのでしょうか。FFにほんごクラブを発起した頃はまだ珍しい言葉だったと思います。それがいつの間にか、いろんなところで頻繁に使われるようになりました。

2002年の夏、京都府内で日本語ボランティア活動を行なう20ほどの団体が集まり、「京都にほんごRings」というネットワーク組織が発足しました。一口に日本語学習支援といっても、色んなタイプの団体があるのに、定款を決める時、誰ひとり異論を唱えることもなく多文化共生の文言が当たり前のごとく文中に記載されました。

 

どうもこの「共生」という言葉は今あちらこちらで大安売りされているのではないか。言うは易しで、実際は異文化に「共感」することすら簡単なことではないはずです。私などは最近、国際結婚された方々のみ使用が許される言葉だと思うようになりました。

我々が本当に「多文化共生」を目指すのであれば、日本語のお勉強などに勤しんでいる場合ではなく、「日本語を身に付ける苦労をしなくても外国籍住民等が快適に暮らせる世の中」を創り出すための取り組みを急がねばなりません。

 

このように考えていくと、日本語クラブや国際交流機関のような存在が不必要な世の中になれば、真に理想的な社会が実現したことになります。もしも、そんな時代が本当に到来してしまったら、我々が今やっていることを、後世の人々は「むかし日本では、自国の言語を外来者に強要するという、愚かで野蛮な行為が平然と行なわれていた」と、労うどころか非難するにちがいありません。

・・・あまりにも非現実的な考えですが、こんな妄想を頭の片隅に置いておくのはいかがでしょうか。時代が変われば価値観も大きく変わることがあるのですから。

 

↑ 目次


 

第5章 日本人どうしも異文化理解を

以前、いくつもの日本語教室を掛け持ちで参加している教師志望者がこのクラブへ来て、次のような感想を話してくれたことがあります。

「ここでは、外国の人達と日本の人達が混然一体となっている。他の日本語教室では日本人と外国人を区別して運営している印象があるが、ここにはそれがない。外国人が外国人に日本語を教えていることもある。いろんな世代、職業の人もおり、アットホームな雰囲気に包まれている」。

発足当初にはこのような長所がありました。

 

しかし、短所もあります。一度だけ訪れて、その後二度と来ない人も少なくない。誰でもいつでも受け入れるという「来る者は拒まず」のオープンで自由すぎる体制は、かえって定着率を悪くしている面もあるようです。

熱心に参加し続けてきた人も、「他の人は何もしない」と言い、そのうち「誰かがやってくれるだろう」と最初のときの自発性が低下していきます。

 

好奇心をもって参加する人があまりにも多いのに、長続きする人が少ないのが、この「業界」の特徴。たとえ教える「資格」をもっていても、先ほどの養成講座の先生が指摘した「資質」を身につけようとする気持ちがないと、活動を継続することは難しいと思います。実は日本語学校の教師よりもボランティア支援の方がはるかに高度な「仕事」なのです。しかし、花瓶の花の部分しか見ていないような人は、そんなことに気づくこともなく、別れも告げず業界を去っていくのです。

 

「ここは、日本人もいろんな人が来ていて、いろんな話が聞けるのでとても勉強になる」と前向きな感想を語った学生がいました。

一方、日本人のスタッフどうしが意見が合わずに対立していたり、外国人には愛想よく振舞うのに日本人には心を開かない人がいたり、など、こういう人たちを見ていると、異文化理解とは日本人対外国人の間だけで行なうものではないとあらためて感じます。同じ国の人どうしでも、年齢や職業、性別、立場、育った地域や環境などが異なれば異文化といえます。考え方が違っていても、相手の話すことに素直に耳を傾け、相手の立場になって考え直して話してみると、コミュニケーションはうまくいくはずなのですが。私自身、ここでの経験のおかげで、職場や友人、家族、近所の人たちとの接し方が少し変わったような気がしています。

自分と周囲の人との違いを認識して仲良くできるように努めること。FFにほんごクラブは、そんなことを発見できる場になってほしいと思います。

 

↑ 目次へ


 

第6章 大家族の一員として

発足10年を過ぎ、このクラブは当初のスタッフからメンバーがずいぶんかわりましたが、いつも誰か行動する人たちの手によって、その運営が成り立ってきました。学習会をスムーズに進めるために会場の準備や受付、事務を担当する人、すすんで部屋の清掃をする人、ゲームやレクリエーションを行なう人、バザーや料理 会、野外活動を催す人、人員募集のチラシを作る人、それを配布しに行く人、会報紙を編集する人、ホームページを作成する人、また、帰国した人や海外へ赴任 した人が便りを寄せてくれたり、等等。

ボランティア活動とは、人のために行なっているだけでなく、自発的に行動することによって、自分自身が活き活きと楽しむことなのだとあらためて気づかされます。このクラブでは「~しなければならない」というルールを定めずにここまでやってきました。自分のやりたいことを一歩前へ出て行動する人が一人でも多いほどクラブ全体は盛り上がりますし、逆に少ないと衰退していきます。各自が、責任感や周囲への配慮をもって継続すれば、人に満足や感動を与えることのできる、素晴らしいクラブに成長していくでしょう。

 

数年前、京都での留学生活を終え中国・西安市に帰国したメンバー、Rさんがクラブの会報紙に投稿してくれた文章の一部をここで紹介したいと思います。

 

「・・・学校で学んだ知識以外に、日本の友人との交流を通して、満開の桜もきれいな国への一層の理解を深めました。この伝統的で近代的な、私の祖国と一衣帯水の美しい国にすっかり魅了されました。

・・・お世話になった大学の先生、クラスメイトはさることながら、とくに京都FFにほんごクラブの友だちに感謝の意を表します。大家族(クラブ)の一員になったあの日から、皆さんの手厚い配慮と援助にあずかりました。日本語の習得においてもいろいろな文化、習慣に触れる機会に恵まれ、また思い出深い集いやキャンプを重ねるごとに、私達の友情と日本に対する感情が深くなってゆきました。

この愛しい大家族の中には、父親や母親のように温かい、兄や姉のように優しい、そして可愛らしい妹や弟のような親友がいます。留学生活の数年間は、長い人生のうちの短い一瞬に過ぎないでしょうが、心の片隅にあるこの幸せが、更なる飛躍へと歩み出す、私の原動力となるでしょう。帰国するに際して、皆さんありがとう、皆さん一人ひとりの笑顔を忘れずに、素敵な思い出を胸に祖国へ、母のもとへ戻り、異国の空の下で国籍・年齢を越えて、人と人が交わした真の友情にどんなに深く感動したことかを伝えたい・・・」。

 

このような感動を書き綴ってくれたRさんの言葉に、今度は私が感銘を受け、原動力をもらいました。その当時、クラブは資金難の状態にありましたが、私は何としてもこのクラブを続けたいと思いました。やがて周囲から援助の手を差し伸べてくれる人達が現れ、学習会場にも恵まれ、クラブの運営を継続することができました。

 

発足してから今まで、このクラブには世界中の様々な国からの人たちが訪れ、日本語学習を通じて数々の異文化コミュニケーションが交わされました。

Rさんはこのクラブのことを“大家族”と表してくれましたが、もっと輪を広げて考えてみるのはどうでしょうか。たしかに人と人とは相違点を探せばいくらでもあります。しかし、自分と異なる人に対して、“よその人”とか“他人”という冷たい言葉で距離をおくのではなく、違った一人ひとりが、大家族の一員だと意識してみん なと仲良くやっていく工夫や努力をすること、また、そうすることが楽しいと思えるようになること、これからの社会ではとても大切なことだと思います。

 

私は海外で暮らした経験もなければ、外国語を駆使する能力もありません。が、このクラブに参加し続けることによって、様々な人たちと気持ちを通じ合える、世界の「共通語」を少し身につけたような気がします。

 

↑ 目次へ